昭和52年08月13日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
受け物が悪ければおかげが漏るぞと。例えばこうして御理解を頂いておりましても、それこそ有り難う受けて帰れば、舟にも車にも積めぬほどの神徳があると仰せられてありますけれども、受け物がなからなければ何にもなりません。ただ聞いたと言う事だけです。また、それを聞いて覚えておっただけでも何にもなりません。それがおかげの基、お徳の基になる頂き方、問題は、その気にならなければいけないと言う事です。
先日昨日一昨日でしたか。今学院から帰って来とります修行生の方達が、色々とあちらでの事を発表しとります事の中に、まあ合楽を色眼鏡で見ておられるという先生方が多い中に、三人程は教授と言われる先生方が、非常に合楽の信心に帰依しておられる方達がある。その方達は授業の時に合楽の先生はとか、合楽ではという話をなさる時には、もうとにかく有難い。それこそ眠気どもが付く事じゃない。嬉しいですからね。有難いですから耳にはいるという訳です。
もうとにかく○○先生なんかは、「おかげの泉はまだ来んか」と言って、何時も催促される、という話をしておりましてね。まあ言うならば、学院にはそういう先生方がおられるかと思うて、まあ私も有り難いと思いました。確かにね、私は昨日聞かして頂いたんですけども。今、あの壱岐の末永先生のところでは、「おかげの泉」が六十五冊取っておいでられるそうです。熊本は、富永先生のところは五十冊。もう本当に信者が「おかげの泉」を待ちあぐねておる。
そして段々増えておるということです。矢張り待ちあぐねるという心ですか。だからもうそれを読みだしたら一気に読んでしまう。又繰り返し読むだからおかげを受けるんです。「おかげの泉」の扉に書いてあります。普通の新聞雑誌の様にただ乱読ではいけません。少なくとも十遍は読んで下さいと扉に書いてあるでしょう。果たしてどうでしょうか、十遍読みよる人があるでしょうか。
あれは読む本でなく頂く本だと。読んでおかげの頂ける本だと言う様に私は思っております。だから体裁とか例えば読み難いとか、色々言われますけれども、もうあのままが読み難いそのままがおかげを頂くのだから。受物が悪ければおかげが漏るぞと如何に毎日毎日こうやってならお話を頂いておっても、しかもその話を又研修さして貰う為には、何遍も内の修行生は聞いてます。
そしてそれを纏めますと居りましても。その気で頂かなかったら詳しゅうなるだけで、言うならばおかげにはつながりません。その気にならなければ。私はこの受け物が悪ければということは、今日はそういうふうに聞いて頂きたいです。今まで「おかげの泉」が千部出ておりました。今度今月から千五百部出るようになります。段々いわば遠隔地の方々の、言うならば愛読者が増えていきよると言う事です。
昨日は、言うならここの二枝目と申しましょうか、ビリグイに対する植木教会が正式に、ここの修行生の山田先生が植木教会の教会長として、昨日その報告祭が御座いました。ここから若先生とそれから信徒会長と永瀬さん、高橋さん四人でおかげを頂きました。本当にそりばってん合楽の息のかかっとるだけでこんなにおかげ頂くだろうかと言う様な感じだったと、秋永先生が帰って話とりました。それこそ、もうこれ以上みすぼらしい教会はなかろうという教会でした。
私もあそこの判をあそこに貰いに行った事があるのでね。山田先生が布教に出る時に、もう本当にそれこそみすぼらしい教会でしたが、もう昨日山田先生が言いよりましたが、もう蚊の製造所のごとあった。もうその水も流しでも風呂場でも、そこでもうたれ流しと言った様なね。下水もないち。でこの頃その時に、高橋さんも行っておられましたから、今度行って帰ってから、もう入り口の所に広い空き地があるのです。
裏町ですけど。そこが綺麗に整地され清掃されて、そして何か綺麗な、この何というか入り口が出来ましてね。そしてもう家も改造して下水なんかも勿論掘って、水をずうっと。部屋も一部屋造り継いでおかげを頂いて。勿論信者は一人も居らんのです。もう只そこの息子さんという方が、高校の先生をしておられれる。その方達が、昨日秋永先生が「ほう、ここにもこんな良か信者が居るばいの」と思いよったら、そこの息子さん達夫婦と娘さん達だったらしいです。もう信者は一人もいない。
昨日お祭が済んで夕方、その息子さんの車で早速お礼に出て来ました。その時にその教務所長先生が、豊後森から行きよんなさいます。それであちらの挨拶やら、説教やらがあったらしいのですけれども。中でここも一つどうでも人の助かる教会となって、今は植木教会と言いよるけれども、これを北熊本教会と言った様に看板を替えられたらどうでしょうかと。まあ北熊本教会といえば大きいという意味でしょう。と言われたと言うから「そんな事はいかんばい植木教会がいいよ」とね私が。
言うならば植木ということは、もう何十年の教会ですけど、言わばそれが絶え絶えになって、枯死寸前で、言うなら当分は神様をお守りする人もなかったという状態だった。それがなら今度合楽からおかげを頂いて行って枯死寸前のなら植木に水を与える、肥料を与えたりして是が大木になるおかげを頂く為に、植木というのが良いんですよと言うたら、はぁそういうふうに頂けば植木が良いですねと。
合楽なんかでもそうですよと、ここでも色々ここの教会も色々あったけれども、私が絶対合楽教会と言って合楽教会と言う事になったが、成程合楽教会でなからねばならぬ理由があった訳。やっぱり神乍のものだからねと言ってまあ話した事でしたけれども。そのそんな訳でお祭が済んでお直会が済んで、その先生を送る人がなかった教務所長を。それでたいてい辛抱しとったけれども、何ならば豊後森ならば田主丸。
丁度総代さんの永瀬さんも見えとりますから、ほんの田主丸駅の前の方ですから、これに便乗なさいませんかと言って、こちらへ連れて来た訳です。それで此処へ寄られましたから、一時間余りも居られましたでしょうか。色々随分合楽に対しては、言うならそれこそ根も葉もない事を聞き込んでおられますから、随分と色目がねで見ておられた方でしたけれども、此処え見えられても実に良い先生で、大変何と言うでしょうか好意的でね。おかげを頂かれて、そして今日私は説教承りまして。
実はこういうようなお話しを致しましたと言ってそのお話しをした、あらましを話される位ですから、気分が快ようあんなさいます。又今日はとても気分がようあんなさったじゃろうね、あんな事も言いなさったけんでと、まあ後で話したことでしたがその話しの中にです。日田の出社で何とかという、夏目という先生がおられます夏目先生。これはもう熊本切っての教学派の先生で、丁度椛目時代に四.五回位参って見えましたでしょうか。その夏目先生の話しが出ましたです。
本当にあの夏目先生から聞いた話しなんですけども、まあここの椛目時代にお引き寄せ頂いたという話しをしとりました。でそれ以来大変おかげ頂いた話しを聞いたんですけども、と言って話されるんです。そうですかと言うてから、それがあちらにお参り、椛目に参って見えた時に、まあお茶を上げながら、先生がタバコ喫まれるので、私がマッチを持ってこいと言ったそうです。こっちはもう全然覚えとらんとです。
そしたらそのマッチが空だった。その時に「マッチが無からなければタバコは喫めないね」と言ったそうです。それっきり夏目先生は、タバコはもう十何年になりますけれども止めてますよという話しをね。もう先生の一言がそんなに効いた。勿論マッチを持って来て、さあどうぞ召し上がれと言って大坪先生は言われたけれども、もうそれ以来私はたばこを喫まない。あれはもう合楽の先生のおかげだという話しを聞いた。
色々悪口が沢山出るでしょう出たでしょう。けれどもこう言う所もあるんだという話しが出た時なんでしょうね。ああそうですかといって合槌を打ちよったら、御心眼にその場で頂くのが、大石良雄が陣太鼓を打ちますね。あの人は山鹿流の陣太鼓の名手と言う事ですけども。その山鹿流の陣太鼓をこうやって太鼓を叩いておる所をその場で御心眼に頂くんです。山鹿流の陣太鼓というのは、それこそ遠くで打って近くに聞こえ、近くで打って遠くに聞こえるという程しの、言うならば秘術と言うでしょうかねものが。
そういう流儀なんだそうです。それこそ毎日膝元で、それこそ血にならんだろうか肉にならんだろうか。昨日の御理解じゃないけれども、もうこれが最高の味だという味を付けて、皆さんの前に出させて頂いても、それを頂かなかったら何にもならん。目の前でおご馳走を見ておるだけになるでしょうが。この人にタバコを止めさせよう、この人にいっちょ酒を止めさせようと例えば言って、言うならばそのお話しをした所で、聞かなかったら出けませんけれど。
なら何が夏目先生を、そのような一つの変わり方と言う事がなされたかというとです。合楽では随分人が助かるという話しだが、やっぱしそういう先生の信心、または話から一言でも何かを頂こうという、その気で来ているからだと言う事で御座います。なにか頂いて帰らにゃという、いわゆるその気で聞いておるからなんです。別に御理解を頂かれた、勿論、一晩泊まってあくる朝の御祈念を頂いて帰ると言った様な時もあられたんですけども。なら朝の御理解を頂いてというのではなくて。
言うなら控えでお茶を頂きながらタバコを吸おうと思って、マッチが無かったからマッチを持ってこいよと私が言った。所がそれが何と空だった。そこであぁマッチが無いならタバコは吸えないねえ、だからマッチを持って来いと言う為にそう言ったんでしょう。それを聞いた時点から、私はタバコをもう十何年止めておるといって言われた。何か頂かなければならんという。
その気で当時の椛目に見えておったから、今日までそういうおかげを受けておられるわけです。私は本当に有り難いと思いました。だから如何に目の前にどういう味付けの素晴らしい味付けをした、ならおご馳走があってもね。合楽理念とは金光大神の教えの全てを、もう必ずおかげが受けられる、必ずお徳が受けられるという絶対の説き方をしておるのです。ただくわしゅうなる為の説き方をしておるのは一つもない。必ずお徳になる必ずおかげが受けられるという説きかた。そういう言うならば味が付けてある。
それをならどんなに素晴らしい味が付けて合っても、頂こうとしなかったら、それはただおご馳走を目の前に見ただけである。ただ聞いておるだけは成程と思っただけである。それではおかげにならんと言う事。私は今日はここん所をね、受け物が悪ければおかげが漏るぞと仰るが、私は今日はここん所を今日は聞いて頂きました。「おかげの泉」はまだかと言う位の先生なら必ず、なら繰り返し読んでおかれなければ、また分かりませんよね。中に分り難い私の筑後弁まるだしで話取る事ですから。
もう私はあの豊美の所に行ったときに、威智雄さんがずっと読みよります。それにはもうずうっとその赤鉛筆でですね、その是はどういう意味だと言う事を書いとるです。字と字の間に言葉の分からん所は豊美に聞いてから、それをずうと註を入れとるです。やっぱりそういう意味でその気になれば勉強させられるご本であると、同時におかげが受けられるお徳が受けられる本なんです。
けれども合楽でにちにちおかげを頂いておる人達は、買っては行きよるけれどもそのままで読みもしないで、ただこう積み上げとると言う様な事ではなかろうか。それはうやうやしゅう大黒様の前にちゃんとこうやって、厚いご本を置いて、そしてそれに紫の袱紗をかけてあってしてあるけれども、果してあれはお供えして飾ってあるだけではなかろうかと思うです。その気がないからです。
言うならそのようにおかげの受け方の目が粗いと言う事なんですよ。言うならばあまりそばで聞いているから、それが遠くに聞こえておる様な事ではなかろうか。遠くで打っても近くに聞こえ、近くで打っても遠くに聞こえる。そこの言うならば聞き馴れたというか、言うならば素晴らしい味付けのお御馳走が出ておって、味が付けてあってもそれを味合おうともしない食べようともしないならば。
それが血肉になる筈もありません。おかげは平等に授けてあるけれども、その人その人の受け物如何で、おかげが全然無かったりおかげを頂いたり。ただ何でもない言うならば一言の中からでも、合楽の先生の何かを頂だかんならんという言うならば思いで、その気で見えておればたった茶飲み話の中たったその一言がね。自分に禁煙を自分の心から止めんならんじゃなくて。
恐らくタバコですから止めようと思って止められない事もあったでしょうけれども、言うならばそれを神の一言としていわば頂かれた所に、夏目先生が禁煙のおかげを頂いとられるというおかげがある訳です。「おかげの泉」でも本当に待ちどうしい位の気持ちで読ませて頂くなら。本当に一気に読んでしまわねばおられないような内容のもの。そしてまた繰り返し頂いて、私はあの日々の御理解でも。
お結界に座っとりますから何回も何回も聞くわけです。昨日も美登里会に、先日の月次祭のお説教をビデオで見聞きさせて頂いたんですけども、もうそれを聞いて、本当に私自身がおかげを頂きます。ですから本当に惜しい事だなあ。皆が折角あんなに高いお金のかかった物を、月次祭たんびにビデオに撮ってしとるから、誰か本当に、家の修行生の方達でも。何人かここで月次祭にお参り出来ない方があったら。見なさらんですか聞きなさらんですかと言う様に、奬めても見て貰うたり聞いて貰うたりしたい。
言うならばご信者さんの中でも、月次祭に参っておっても、もう一遍御理解を頂こうかと言う様な熱意のある人が無いのは、是は私としては寂しい事です。だから何時も私が二度三度見たり聞いたりする会合の時には、私が見ますから見よる聞きよると言う様な程度の事ではなかろうかね。教えというものは、もう頂いた上にもその気で頂かせて貰って。ようやく血肉になるのです。その気で参る、その気で頂く、これが私はおかげの受け物をね、まあ言うならば水も漏らさぬ受け方が。
出来れる姿勢を作る事になると思うのです。昨日の夏目先生の話。それから学院で先生方二、三人の方がおかげの泉をまだかといって、待って読んで下さるという先生方の話の中から、言うならば山我流の陣太鼓ではないですけれども、遠くで打って近くに聞こえ、近くで打って遠くに聞こえる内容をもっておる合楽の信心であり御理解なのですから。その気で頂かなければ、折角の、言うならば山我流の陣太鼓を聞き違えたり頂き損ねたりでは勿体無い事だと思います。
どうぞ。